| ちくわと花火と路面電車の街 豊橋市 その1 (愛知県) 豊橋は、昔、吉田という名称でした。 |
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| ↑三の丸会館 | ↑南御多門跡。本丸門のひとつでここを越えると本丸となっています。 本丸跡を中心に、現在は豊橋公園として整備されています。 吉田城の石垣、空堀等、きわめて保存状態の良い遺構が残っています。 |
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| ↑本丸横から豊川を臨んだところ。 天然の外堀として、かなり蛇行している豊川が眼下に流れています。 |
↑吉田藩祖豊城神社の碑と鳥居。鳥居の奥には社殿はなく、 なぜか日本武尊の像がたっていました。 同時にここは今橋城時代の主郭があったとされている場所です。 |
豊橋市は、東は静岡県に接し、東京や大阪のほぼまんなかにあたり、南は太平洋に臨んだ歴史の古い都市です。(渥美半島の付け根に位置します) およそ10万年も前に人類(牛川人)が住み、市内の瓜郷町にある国指定の史跡、瓜郷遺跡からは多くの狩猟具農具、 生活用具が発掘され、弥生前期から後期にかけての集落があったことが証明されています。 古くは「穂国(ほのくに)」と呼ばれていましたが、大化の改新の頃、三河国に統合され、 鎌倉時代には豊川(河川名)に“今橋”という橋が築かれたことから「今橋」といわれるようになりました。 永正2年(1505)に地元の豪族、牧野古白によって今橋城が豊川河畔に築かれ、その後天文15年、 今橋城は今川義元の手に帰し、「吉田」と地名が変えられました。江戸時代は譜代大名の城下町として、また東海道の宿駅として栄えました。 明治2年(1869)に吉田は“豊川(とよがわ:河川名)に架かる橋、豊橋(とよばし)”の名をとって「豊橋(とよはし)」に改名されました。 生糸、玉糸の生産が盛んで、、花田方面は製糸工場が沢山ありました。 また、明治41年(1908)には旧陸軍第15師団が設置され軍都としても知られました。 しかしながら太平洋戦争に入り昭和20年(1945)6月20日の空襲により市街地の大半が焦土と化してしまいました。 |
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| ↑市民に“市電”と呼ばれて親しまれる路面電車です 大正14年に開業した80年もの歴史を持つ路面電車で、豊橋駅前の「駅前」電停から郊外の「赤岩口」「運動公園前」までを結ぶ路線です。 路線長5.4kmと岡山に次いで2番目に小さな路線ですが、日本で唯一国道1号線を走る路線です。 (いろんな絵柄のカラフルな電車が走っていましたが、滞在中、同じ絵柄の電車を2度見ることがなかったですね。何種類くらいあるんでしょうね) |
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| 第八国立銀行は名古屋の第百三十四国立銀行に吸収され,現在の愛知銀行に。 中村道太は吉田藩士の中村哲兵衛の長男として生まれ, 28歳の時,福沢諭吉のもとを訪れ 師弟関係を結びました。その後丸屋商社(のちの丸善)に入社し社長となり、 豊橋に戻り,東三河地方で初めての銀行である朝倉積金所を設立し,さ らに政府の国立銀行条例に基づき豊橋に第八国立銀行を設立しました。 1880年(明治13)横浜正金銀行(のちの東京銀行)頭取となるが, 2年半で辞任し,東京米商会所の頭取となりました。 |
↑豊橋ハリストス正教会 大正2年(1913年)に建てられたロシア正教の教会です。 ビザンチン様式の白亜の聖堂には多くの美術工芸品やイコン(聖像画)が保存されているそうです。 とても、立派で美しい建物でした。 八町通(市電・市役所前下車) |
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| ↑豊橋市公会堂 昭和6年建築のロマネスク様式の建物(国指定の登録文化財)です 豊橋市八町通二丁目22番地 戦前、豊橋は軍都で、この建物が大典記念として建てられました。 |
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| ↑吉田神社 祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと) 豊橋っ子の血潮を沸き立たせる風物詩、吉田神社の豊橋祇園祭(7月)では、 手筒花火や大筒、打ち上げ、仕掛花火等で豊橋の夜空は火の粉で彩られます。 |
↑手筒花火発祥の地 豊橋の手筒花火は、放揚者が自分で制作するのが基本で、 若者の大人への門出や、度胸試しにもなっています。 ”家康によって生まれた三河花火” 三河が生んだ英傑、徳川家康は早くから火薬の威力を認め、 泰平の世となってからは、火薬の製造や貯蔵を禁じ、 徳川発祥の地である三河のみに許可しました。 三河の花火は、家康の編成した鉄砲隊が、 火薬の取扱いを故郷の子弟たちに伝授し、 やがて祭礼用の献上花火として打ち上げるようになったのが始まりとされています。 三河地区では片手で放揚する小型の花火を羊羹花火、 両手で持つ大型の花火を手筒花火と区別しています。 |
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| ↑吉田宿本陣跡 吉田宿は、東海道五十三次の三十四番目の宿場町です。 本陣とは、各宿駅に置かれ街道を往来する大名、幕府役人、宮家、公卿など身分の高かった人々が宿泊したところです。 ”うなぎの丸よ”の前に石碑がありました。 (明治時代から続く老舗うなぎ料理店。ウナギの皮を上にして丼にのせるのは、創業以来100年以上続くスタイルだそうです) |
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豊橋市発祥の「ええじゃないか」 慶応3年(1867年)7月14日、三河国渥美郡牟呂村(現豊橋市)において伊勢神社の外宮のお札が降っているのが見つかり、お札降りによるお祭りが行われました。 民衆は、紅白の手ぬぐいや赤頭巾を身につけ、古歌をうたって、「おかげ」踊りで行進しました。 その後、吉田城下各町でお札降りによる臨時のお祭りが行われ、大勢の民衆が集まり「おかげ」踊りを乱舞し、東海道を媒体として東西へ急速に伝播することとなりました。 豊橋で発祥した「ええじゃないか」は、米価高騰など様々な生活不安から、世直しへの期待とともにこのように広がったと言われています。 |
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| ↑ヤマサ本店(創業180年) 吉田宿(豊橋)で魚問屋を営んでいたヤマサちくわの祖先佐藤善作が、四国の金比羅様に代参した時のこと。その地で名物として売られていたのが、ちくわでした。 なかなか目新しく、食べてみると味もいい。海産物に恵まれた地である豊橋地方は原料となる魚には事欠かない、善作は帰国するとさっそく製造にとりかかりました。 ちくわの販路は、当時塩を運んでいたルート「塩の道」を使い、魚類が不足している信州にも広げられました。そこで生まれたのが「塩漬竹輪」です 徒歩か馬で物を運んでいた時代のこと、ちくわを一日でも長く保たせるために、塩を使ったのです。ちくわの穴に塩をつめ、さらに上から塩をふった「塩漬竹輪」は、 豊橋のちくわ発展の源となりました。 このちくわは谷川の水に一昼夜ひたして塩気を抜いたそうですが、ほどよい塩加減で大変な人気でした。 ちくわ・かまぼこの歴史は古く、神功皇后が三韓渡航の途中、九州生田の杜(現在の小倉)で、鉾の先に魚肉をつぶしたものを塗りつけ、焼いて食べたという伝説があります。 この食べ物が蒲の穂(がまのほ)によく似ているところから、「蒲穂子」と呼ばれ、「蒲鉾(かまぼこ)」に転じたといわれます。 ところが、蒲の穂の姿は現在のちくわとそっくり。その昔、「蒲鉾」といわれていたものが、ちくわの始まりだったということなのです。(ヤマサのHPより) |
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| ↑広小路でんでん(ヤマサちくわの直営店) 2,700円のコース料理をいただきました。 名物”蒲の穂”は、炭火で炙っていただきます。 コースを食べ終わるまで、たっぷり2時間。お腹が空いていたので、待っている時間が長かったです。 ここは、お酒を飲みながら、じっくりいただくのが、いいようですね。 (写真のほかに、お握り茶漬け、シャーベット、前菜あり) 愛知県豊橋市広小路1丁目10(駅から歩いてすぐ) |
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←愛知大学 明治41(1908)年にこの地に陸軍第15師団が設けられ、 司令部庁舎として使用された建物が残っています。 (NHK朝の連続テレビ小説『純情きらり』の撮影ロケが行われたそうです) 愛知大学の前身「東亜同文書院(後に大学)」は、1901年中国上海に設置され、 日本の海外高等教育機関として最も古い歴史をもちます。 (前の踏み切りは、豊橋鉄道。すぐ横に駅がありました。) |
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←ゼラニュームが街路樹の下で、こんなに大きくなっているのを、見るのは、初めてです。 我が家では、庭に植えておくと、冬の間に凍って枯れてしまうんですよ。 ここ豊橋は、だいぶ温暖な気候のようですね。 |
| 豊橋って聞いても、どこ?っていう感じで、あまり私にとっては、なじみのない名前でした。 でも、実際に来てみると、カラフルな路面電車がゴトゴトとメインストリートを走り、のどかな雰囲気がしました。 新幹線も停まるし、ヤマサのちくわも歯ごたえがあって、おいしかったし、 次回は、花火が見てみたいですね。 豊橋 その2へ |
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小さな旅 食べもののふるさとを探して
2007.6.30〜7.1